out of control  

  


   4

 ウルキが戻ったのは、完全に日が落ちてしばらくしてからだった。
 いつも厳しい表情に見えるが、今日は本当に厳しい顔だ。執務室に入ると、息をつく間もなくウルキは口を開いた。

「王。…鴉王が負傷しました」
「ネサラが?」

 開口一番言われた台詞に、俺は本気で驚いた。
 ネサラの強さは俺もよく知ってる。一体なにがあったんだ?
 ウルキはいつもの声と表情だが気配に緊張を滲ませて続ける。

「はい。……傷そのものは重くはないようですが…雨に打たれて酷く衰弱していると」
「傷を受けた理由は? 例の怪物か?」
「はい。…中にベオクの骨が入った泥人形のようだと…ヤナフが申していました」
「骨? どういうことだ?」

 意味がわからん。ヤナフの声を聞いたウルキもそうだったらしく、しばらく思案した様子で視線を伏せ、歯切れの悪い口調で言った。

「…ベオクの死体が動いているらしい、…とのことです」
「なんだ、そりゃ。死体が動くわけねえだろうが」
「………」

 思わず言っちまったものの、ヤナフが嘘をつくはずねえし、まったく話が見えん。
 頭を抱えたくなったが、その前にネサラとヤナフだ。

「それで、ヤナフの方は? あいつも怪我してんのか?」
「いえ…ヤナフの方は特になにも聞いておりません。二人とも危ないところをある人物に助けられ…今はクリミアの辺境の村にいるそうです」
「誰だ? 詳しい場所はわかるか?」
「名前は言いませんでした。…迂闊に口に出来なかったのではないかと。場所は…ナドゥス城の近くです…」

 ああ、そうだろうな。順風耳持ちのウルキに伝えるために、恐らくその村だかどこだかの上空で怒鳴ったんだろう。
 ベオクの耳には聞き取れねえように気をつけただろうが、クリミアはガリアから近くて特にラグズが多い。特に獣牙族の耳はベオクの何十倍も聞こえるし、親無しの…じゃねえか。ベオクの間じゃ印付きと呼ばれてるらしいが、そいつらが思ったより多く存在することがわかった今、そうそう迂闊な真似はできねえ。
 ……となると、相手はそれなりの身分ってことだな。単純に考えりゃ辺境でも名前を知られているクリミアの重要人物だと思うが、他国の者という可能性も捨て切れねえ。
 他になにか情報があればと思うが、ウルキの様子から察するにヤナフはそれ以上のことを言わなかったようだな。
 とりあえずネサラが重症ではない様子なのは安心した。
 だが、それよりも問題なのは鷹の中でも俺の片腕を務めるほどの手練れのヤナフと、鴉王であるネサラに傷を負わせるような化け物が出やがったってことだ。

「念のために訊くが、まさか黒い鎧の騎士じゃあねえだろうな?」

 俺が言ったのは、かつて「漆黒の騎士」の名で呼ばれたゼルギウスのことだ。アイクが倒したのは俺も見ていたが、ベオクの死体が動いてるって聞くとやっぱりな。
 気になるじゃねえか。もしもあいつだとしたら二人がかりでもネサラが負傷したことも納得が行く。俺はあの男と二度やりあったが、ヤナフはもちろん、ネサラでもあの男には歯が立たねえ。

「違います。ヤナフは…『泥人形だ』とはっきり言っていました…」
「そうか。考えてみりゃ、あの男が相手じゃ負傷で済まねえな。わかった。それで、音の方はなにかわかったのか?」
「はい…。ベオクの戦いの音でした。王も…よくご存知の者たちです」
「とりあえず、敵じゃねえんだな?」

 確認のために訊くと、ウルキは間髪入れずに頷く。俺たちがここまで信頼できるベオクといえば、あいつらしかいねえな。

「はい。……グレイル傭兵団です」
「なにと戦ってたんだか気になるとこだな。どの辺りだ?」
「もう近くまで来ております。見張りの兵には伝えました。……向かわれますか?」
「ああ。こんなタイミングだ。会って話が聞きたい。行くぞ」
「はい」

 本来ならこんな時間に外に出ることはまずないが、今回は仕方がねえ。最低限の火はたいてあるし、身体が覚えているから、セリノスの森の中ならどうにか動くことができる。
 俺はウルキと連れ立って半端に欠けた月明かりの空に飛び出した。
 もうセリノスの外れに着いてんだったら別に部屋で待ったってよかったんだが、アイクたちが戦闘してたってのも気になるからな。
 かがり火のある辺りこそどうにか見えるが、あとはウルキの耳を頼りにほとんど真っ暗闇の中を飛んで、なんとか賑やかな連中の気配に近づいた。

「鷹王? こんなところまでどうしたんだ? 鳥翼族が夜に飛ぶのは不自由じゃなかったのか?」
「よお、おまえたちが来ているとウルキに聞いたんでな。迎えに来たぜ」
「そうか。それは有難い。――セネリオ!」

 影も見えねえが、今は気配を殺していないからはっきりとわかる。緩やかに降りながら挨拶すると、アイクがそばにいた小さな人影を呼んですぐに辺りが明るくなった。
 トーチの杖か。本当にベオクは便利な道具を使うもんだ。

「戦ったと聞いたが、どうやら返り血も浴びてねえようだな」
「ああ。血を出す相手じゃなかったからな」
「もしかして、泥の怪物か?」
「鷹王も知ってるのか?」

 トーチの光で今度こそはっきりとアイクが見えた。俺がこうして地面に降りても視線は多少下がるが、ベオクとしちゃ大柄に入るだろう。三年前まではほんのガキだったってのに、ふてぶてしい面構えや声も今じゃいっぱしの大人の男だ。

「アイク、今は『鳥翼王』です。鷹王では失礼に当たりますよ」
「そうなのか。悪かったな、鳥翼王」
「そんな細けえことを気にすんな」

 相変わらず愛想の欠片もねえ声で言った黒い魔道士は軍師のセネリオだな。それから後ろでそっぽを向いてんのがシノンだったか、ヤナフのダチの弓使いだ。

「お久しぶりです。鳥翼王様。こんな時間に突然お伺いして申し訳ありません」
「いやあ、本当だったらその辺りで野宿してゆっくり明日にするつもりだったんすけど、こういうことは早い方がいいってセネリオが言うもんで」

 馬から下りて俺の前に立ったのが料理が上手いオスカーで、その隣の体格のいい重装兵はガトリーだったか。
 こいつらは印象が強かったから、どうにか名前と顔が一致する。
 ……しかし、人数が少なくねえか?
 もしかしてトーチの範囲から漏れただけかと思って辺りを伺うと、意味がわかったんだろう。アイクが言った。

「今ここにいるのは俺たちだけだ。ティアマトたちは別の仕事に出ている」
「なにかあったのか?」
「ああ。最近クリミアで妙な化け物がうろつくようになったんだ。今はまだ辺境でほとんど人もいなかったから大きな事件にはなっていないが、先日小さな集落で被害が出た」

 そこで言葉を切ると、アイクは隣に立ったセネリオに視線を向ける。作戦会議の時と同じだな。続きはこっちの坊主だ。

「こういった事例は三百年ほど前と、二百年ほど前にもあったと伝えられています。残念ながらおとぎ話の類で詳細はわかりませんが……状況は一致しています。ベオクではなかなか正しい話が受け継がれませんが、ラグズの――とりわけ寿命の長い鳥翼族でしたらなにか伝わっていないかと思って訪ねた次第です」
「三百年前となったら……年寄り連中だな。あとはロライゼ様か、ニアルチも知ってるかも知れんが……」

 こんな時間だ。二人とももう寝ちまってるだろう。
 しかし、事態が事態だからな。ニアルチを叩き起こして話を聞くべきかと思ったが、それを読んだようにセネリオが首を振った。

「起こすには及びません。対策も報告も明日で充分です。泥の化け物の正体はベオクの死体でした。炎の魔法と光の魔法が効きます」
「武器は?」
「残念ながら、あまり有効ではありませんね。時間稼ぎにはなりますが……光魔法や炎魔法を術符にするのも良い方法だと思います。もっとも、属性付きの術符は使用者の魔力によって効力が変わってしまいますから、使い手によってはほとんど効果が得られないかも知れませんが」
「……となると、俺じゃ倒せねえってことか」
「完全には無理ですね」

 そいつァ面白くねえな。
 そもそも俺たちは魔法自体、使えん。ネサラは魔法に似た風切りを使うが、それも風だから効果は期待できねえ。
 腕を組んで少しばかり考えていると、馬を引きながら先に歩き出したオスカーにウルキが話しかけていた。

「ボーレと…キルロイは元気か?」
「はい、二人とも元気ですよ。キルロイは今年の冬は厳しかったので心配しましたが食欲もありますし、今年はまだ寝込んでません。二人とも本当はいっしょに来たかったようですが、この傭兵団ではセネリオとキルロイしか魔法が使えませんし、守りの者も必要ですからね」
「そうか。…元気なら良い」

 後ろからでもウルキのほっとした様子がわかる。…ボーレとキルロイと言や…血の気の多い斧使いと、身体の弱い白い杖使いだな。確か三年前の戦いでウルキとダチになったはずだ。
 こいつにそこまで仲の良いダチができたとはな。うれしいもんだぜ。俺とヤナフは別だが、同じ鳥翼族の仲間にさえ線を引いたところがあったからなおさらだ。

「どうかしたのか?」
「ん?」
「うれしそうだ」

 なんとなく見てただけのつもりだったが、顔に出ちまってたらしい。真っ直ぐに俺を見上げたアイクに言われて、俺は先に飛びながら答えた。
 別に隠すことでもねえ。こいつも仲間をまとめてんだったらわかるだろうしな。

「あいつにダチができたかと思うとうれしくてな」
「ウルキか? ……ヤナフはそうじゃないのか?」

 てっきりそうだと思っていたが、と続けたアイクにどう答えたもんかと考えたところで、アイクの頭が鈍い音を立てる。いつの間にか俺たちを追い越しそうになっていた弓使い、シノンが肩にかけていた弓で殴ったからだ。

「だからてめえはガキだってんだ。馬鹿が」
「どういう意味だ?」
「へッ、そこのお優しい鷹の親分に訊いてみな」
「シノンさ〜ん、待ってくださいよー!」

 皮肉げに笑ってさっさと行っちまった細い背中を、がちゃがちゃと騒々しい音を立てたガトリーが追いかける。

「鳥翼王?」
「ん? ああ、いや。ダチだぜ。ヤナフとももちろん。だが、あいつはちょっと人嫌いなところがあってな。気の合うヤツが他にも見つかったなら良いことだと思ったのさ」
「ああ、そういうことか。それは少しわかる」

 普通ならあんなことされりゃ怒るところだろうに、アイクは気にした様子もない。むしろ後ろからついてくるセネリオの方が不満そうだ。
 はは、相変わらずだな。

「なんだ?」
「いや、あの弓使い…シノンだったな。おまえより年上なのか?」
「ああ。十歳ぐらいな」
「ベオクならそれなりに大きな年齢差だな。鳥翼でいうと……俺とネサラぐらいの感覚か?」

 ちょっと考えて言うと、目を丸くしたアイクが歩きかけた足を止めた。なんだ。一人前になったと思ったが、こんな顔をするとやっぱりまだガキっぽいな。

「あんたも王としちゃ若そうなのに、鴉王はそんなに若いのか?」
「ん? まぁそうだな。俺も王になったのはかなり若い方だが、あいつは若いどころか、まだガキのうちに王になった。普通ならまずありえねえぐらいの年齢でな」
「……キルヴァスは『血の誓約』で長い間縛られていました。代替わりも寿命がはるかに短いベオクよりも早かったとか。それで王になれる人材が次々と失われていったのでしょうね。そんな年齢の者に王位を投げつけなければならなかったほどに」
「セネリオ!」
「事実でしょう」

 ………痛いとこを突かれたな。
 それまで黙っていたセネリオの言葉にアイクが眉をひそめたが、俺は腹も立たなかった。
 ああ、事実だ。その「血の誓約」について詳しく訊いた場にはこいつらもいた。激昂する俺たちラグズにこうやって言葉で頭から冷水をぶっかけたのもこいつだった。
 べつにネサラを助けるつもりがなかったのはわかっているが、あれで連中が気まずいながらも冷静になったんだ。

「なんだ。おまえは案外あいつのことをわかってるんだな?」
「べつに。ただ、彼はラグズでは珍しく情報と知識の価値を知っています。だからこそ殺すよりも利用した方が良い。そう言ったのはあなたでしょう」
「ああ、言った。殺すのは一瞬だ。鳥翼族はもちろん、ラグズにとってはあいつを失うことの方が損失がでかい」

 俺を見上げる赤い目に笑って頷くと、セネリオはまたなにか言いたそうにしばらく黙って、結局そっぽを向いた。

「アイク、ずいぶん遅れました。早く行きましょう」
「ああ、わかった」

 それから遠ざかった仲間を見て、焦れたようにセネリオが声を掛ける。
 ベオクは俺たちほど不自由じゃねえだろうが、それでも夜だ。先に歩きながらかがり火のないところで二度、三度とトーチを使う辺り、俺とウルキに気を遣ったらしい。
 三年前はアイク以外はいないもの、女神との戦いの時にはアイクとその他って感じだったのに、変われば変わるもんだ。

「鳥翼王、すまないな」
「なにがだ?」
「セネリオには、悪気はない。ただ、鴉王一人が糾弾されている場を見て思うところがあったんだろう。それに、セネリオはあの釈明で鴉王よりもデインについて腹を立てていたから、なおさらかも知れん」
「ああ、デイン王というか…巫女の方か」
「デインの取った行動は必死の時間稼ぎだったにしろ、もっとも愚かしく悪辣なやり方だと言っていた。どちらの兵の命もただ無駄に奪っただけだからな。その言い訳も全て元老院に『血の誓約』を結ばされたからだと言っている。守ったのは自分と身内の命だけで、結果として多くの兵の命はただの盾だった。デインを守ると言いながら民を守っていない。あれでデインがベグニオンやクリミアと対等な和平交渉を望むのは信じ難いと」
「まあ、そうだろうな。それについちゃ俺も思うところはある。だが、クリミアとベグニオン、どちらを治めているのも『お優しい』統治者だ。そうそう無体なことをデインには言わんだろうさ」

 もっとも、あの切れ者の「小さな軍師殿」は、それにも納得が行かねえんだろうが。
 そんな意味を込めた視線でアイクを見ると、アイクは太い木の根を避けながら白い息をついてかすかに頬を緩めた。苦笑ってやつだな。

「鴉王もあんたたちに犠牲を出したのは事実だが、犠牲が最小限で済むよう可能な限りの手を打っていたし、なによりも自分の民を守るのに必死だった。『血の誓約』についても、それを理由にしても言い訳にはしなかった。王としてその差は大きい。そういうことらしい」
「………ああ」

 アイクの言うことはわかる。
 俺はあの戦いでデイン王といっしょに戦ったが、似たような感想は持った。
 性根が優しいことは為政者にとって悪いことじゃねえ。だが、弱いのはいけねえ。身体だけじゃねえぞ。心もな。あいつなりにがんばったことは認めるが、結果が出せねえなら王の資格はねえ。それは将軍の地位にあったあの巫女にも言えることだ。
 デイン王が元老院相手に騙されたくだりには、俺でさえあんぐり口を開けたからな。
 上に能力がなければ下が苦労する。苦労で済めばいいが、死ぬこともある。
 それでも上に文句を言えねえんだから、ベオクの社会ってのは不自由だと思うぜ。
 それから俺は飛べば数分の距離を、徒歩のアイクたちに付き合って三十分以上かけて白い石造りの小さな王宮に戻った。
 とりあえず、話は明日だ。今日のところは慌てて飛び出してきたシーカーに事情を話し、客人たちに飯と風呂、客室を用意させて俺も休むことにした。

「……なんて一日だ。まったく」

 最後に部屋に入ったアイクに挨拶をしてからずいぶん久しぶりのような気がする寝台に座ると、ほとんど無意識にため息が出る。
 今朝は普通に仕事をして、昼には妙な噂話を聞いたネサラが飛び出しちまって……長い一日だった。
 泥人形のような怪物ってのももちろん気になるが、クリミアの辺境の村だったか? どこだか知らねえが、ネサラはちゃんと寝てんのか、飯は食ったのか、雨で衰弱したと聞いたがどの程度なのか、俺の頭にはそんなことばかりが浮かんで消える。
 もちろん傷の具合も心配なんだが、ここんところ朝から晩までずっといっしょだったからなおさらだ。
 あいつはとことんまで一人で抱え込む癖がついちまってるからな。なにもかも話せとまでは言わねえが、もう少し力が抜けるまでどうにも心配でしょうがねえ。
 ……ニアルチのじいさんやリュシオンたちの過保護っぷりが伝染っちまったのかもな。
 こうして転がってみると、一人の寝台ってのは妙に広い。あいつがいるのに慣れちまったから腕の中がさびしいっつーか……。
 俺は女を抱いても朝までいっしょに寝るってことはねえ。鷹の女は総じてそうだが、俺も女もそんなべったりした関係は面倒くせえからだ。
 そういう意味では、ネサラは俺が朝まで抱いて寝たことのある数少ねえ相手だな。
 もっとも同じ抱くでも本当にただ添い寝するだけの、なんの色っぽさもねえ同衾だったけどよ。
 俺が自分から抱いたんじゃねえぞ。最初は「寄るな、狭い!」なんて怒って俺も自分も隅っこに追いやるくせに、いざ眠り込むとあいつからごそごそ寄ってくるんだよ。
 もちろん、これにも色っぽい理由はねえ。単に寒いからだ。
 寝ながらうっかり俺で暖を取るぐらい寒がりのくせに、風邪でもひかなきゃいいんだが……。しょうのねえヤツだぜ。

 次の日。
 ぐだぐだ考えながら寝たせいだろうな。俺にしちゃすっきりしない頭を抱えてむっくり起き上がると、俺は事務の報告を聞きながら簡単に朝飯を済ませてさっさと執務室に向かった。

「おはようございます、王! グレイル傭兵団のアイク殿がお待ちですよ」

 わざわざ時間を決めたわけじゃねえが、さすがだな。駆け寄ってきたロッツに言われた通り、扉の前にアイクとセネリオが揃って俺を待っていた。

「すまねえ。待たせたようだな」
「いや、俺たちが早かっただけだ」
「じゃあ、話を聞かせてもらうとしよう」

 扉を開けると、控えの間からウルキとニアルチ、リュシオンとリアーネまで出てくる。ニアルチは呼んだが、リュシオンたちは呼んでねえぞ。アイクが来たと聞いて文字通り飛んできたんだろうよ。
 二人ともネサラが処刑になるかどうかって瀬戸際に、アイクがいきり立った俺たちラグズの中で放った一言に感謝してるからな。

『鴉王、良かったら俺の傭兵団に入らないか? 見ての通り貧乏な傭兵団だが、団員は皆家族だ。俺は家族を全力で守るぞ』

 見慣れた仏頂面のままさらりと言われてネサラは目を剥いたが、そのネサラに張り付いたリュシオンとリアーネは泣き出しそうな顔で喜んだ。ニアルチもだ。
 ネサラの問題はラグズの問題だ。ベオクであるこいつの発言は火に油を注ぐ結果になったが、吼えた連中を黙らせて獅子王が呟いたんだよな。

『家族か。……キルヴァスは我らの家族でもあったのに、その苦難に長く思い至らなかった。疑うべきことはいくらでもあったにも関らず』

 獣牙族のガリアに言われちゃ、鷹は黙るしかねえよ。小さくなっていた鴉たちはその言葉で泣き崩れた。
 あいつらにとっちゃ、それが本当に叶うかどうかじゃなかったんだよな。
 あんな場面で、一人でもネサラを庇う者がいてくれた。それが本当にうれしかったんだ。
 なにせ鴉の連中は年寄りからガキまで「王を殺すなら自分を」って本心が丸見えで、ネサラはネサラで「俺の首だけでどうにか済ませて欲しい」と必死で、塔の中で既に怒り自体を失っちまってた俺の気分は苦いなんてものじゃなかった。

「とにかくアイク、私も話を聞くからな!」
「ああ、鳥翼王がそれで良いと言うなら俺は構わん」
「それなら心配いらない。そうですよね、ティバーン」
「わたし…も!」

 まったく、こいつらの素直さがうらやましいぜ。
 答える前に視線を向けた先のセネリオがかすかに頷くのを確認して、俺は「もちろんだ」と答えながら執務室に入った。

「じゃあ、話を聞かせてもらおうか。例の怪物が最初に出たのはクリミアなんだな?」
「はい。今回はそのようです。もっとも、確認の取れていない地域については断言できませんが」
「どこだ?」
「デインの国境に程近い小さな村です。正確には、村の中ではなくてオルリベス大橋の近くですね」

 説明はセネリオだ。
 ……あそこか。俺もあの戦いにゃ加わってたんだが、デインの連中が石造りの橋にやたら落とし穴を掘りまくりやがって、戦うよりも穴に落ちた連中を拾う方が大変だった。

「わたし、おぼえて、ます! ニイサマの代わり行った。たくさんうたい…ました!」
「リアーネが? ああ、確か……私の顔色が良くないとティバーンに無理やり寝台に押し込まれた時か」
「そう。わたし、ついて行ったの。アイク落ちた。ね?」
「ああ、落とし穴か? 確かに落ちたな。オスカーに引っぱり上げられたが、下ろされた先でまた落ちて、慌てて駆け寄ってきたセネリオも落ちて、」
「アイク! 今はその話は関係ありません!」
「覚えてるぜ。結局、二人とも俺が引き上げたからな」

 クソ重いガトリーも一回、アイクはさらにもう一回引き上げた覚えがある。
 珍しく赤くなったセネリオがごまかすように咳払いして「それより、」と話を続けた。

「泥の怪物は、日中は動きません。活動時間は夜間だけのようです。キルロイが言うには女神がいなくなってもまだ「正」と「負」の気は残っているから、それが関っているのではないかと。ニアルチ殿、ベオクの骨を持つ泥の怪物のことはご存知ですね?」
「はい、それは一応。……しかし……」
「どうした、ニアルチ?」

 説明を聞く内に表情を曇らせたニアルチを見ると、ニアルチは首を振って口をつぐんだ。

「ニアルチ……いたいの?」
「リアーネお嬢様、大丈夫です。いや、失礼いたしました。三百年近く昔と、もう一度。二百と…二十年ほどになりましょうか。そのような化け物が出たと記憶しております」
「詳細はわかるか?」
「なにぶん、ベオクのことですからなあ。三百年ほど昔の折には、我々ラグズがベグニオンからそれぞれの場所に移住したばかりでそれどころではありませんでしたし、二百二十年昔の折は……」

 そこで一度言葉を切ったニアルチが窪んだ目を伏せ、深いため息をつく。
 なんだ? やけに口が重いな。ウルキに視線を向けるが、ウルキにもわからんらしい。かすかに首を振られて俺も考えた。
 二百二十年前っつーと、当たり前だが俺は生まれてもねえ。確か、まだフェニキスで鷹も鴉もいっしょに暮らしていた頃じゃなかったか?

「ニアルチ……」

 首を傾げて考え込んでいると、リュシオンがそっと白い手を痩せた老鴉の肩に置いた。それでニアルチもようやく顔を上げる。
 どうやら、話を続ける気になったようだな。

「申し訳ないのですが、その化け物については私には詳しいことは申し上げられません。ロライゼ様もご存知ないでしょう。当時セリノスは不浄なる世界と完全に隔離された状態にありましたゆえ」
「なぜだ? 覚えていないのか? あんたの歳なら一番元気な頃だろうが」
「ええ、左様ですじゃ。ですが、ベオクの連中の国で起こったことを調べるような余裕はありませなんだ。我々は、鷹の民とまさに決別したばかりでしたからな」

 言われて俺は息を呑んだ。そうか、丁度その辺りか…!

「皆がフェニキスを離れ、キルヴァスで生きて行くために必死でした。僅かばかりの乾いた土と岩ばかりのキルヴァスに根付くには、他に気を取られるような余裕はなにもなかったのですじゃ。ですから、その化け物の話はそれからずいぶん後、そうですな。五十年も経ってからそのようなことがベオクの国であったらしいと、噂として聞いただけです」
「噂の出所は?」
「………ベグニオンの、当時の元老院でしょうな。あの忌まわしき誓約に縛られ、ベグニオンと深く関わるようになってからの話ですから」

 リュシオンとリアーネが慰めるように老鴉の手や背中を撫で、それきりニアルチは黙り込んだ。
 ……これ以上は聞けねえな。聞いてももう情報は出てこねえだろう。
 石頭の黒竜王はもういねえし、獅子王も今はスクリミルに王位を譲って旅に出ちまった。ロライゼ様も知らねえとなったら、参ったな。もちろん鷹にも年寄りはいるが、獣牙族並みにベオクのことなんざどうでも良い連中ばかりだし、こちらから出せる情報はねえか。
 獅子王を捕まえて話を聞くとなったら、まずどこにいるか探すことからになるが、目立つ分探しやすそうなことだけが救いかも知れねえ。
 そう思って俺が口を開きかけたところで、先にセネリオが言った。

「どうやら、情報はなさそうですね」
「前の獅子王も若かった頃だ。ガリアはラグズの中でも当時では一番安定していたはずだし、聞く価値はあるかも知れんぞ」
「いいえ。獣牙族はことに情報を軽視していますし、ましてその頃はベオクの国で起こったことなど本当に興味がなかったでしょう。あの獅子王も若い頃はスクリミル将軍…現在の獅子王とよく似ていたと聞き及んでいます。期待はできません」
「それはそうか」
「はい。わざわざ探す手間を掛けて無駄足を踏む時間も惜しい。それならベグニオンに行ってマナイルの大図書館でも調べて来ようかと思っています」
「しかし、許可証はどうする? ネサラが持っていたと思うが、貸してやりたくてもあいつは今ここにいねえぞ」

 確かあそこの大図書館を利用するには、元老院発行の許可証が必要なはずだ。だが、もうその元老院はねえ。
 ネサラはサナキ直筆の許可証を持っているが、あいつのことだから身に着けたままだろうしな。
 だが、セネリオはにやっと見かけに似合わねえ不敵な笑みを浮かべて言い放った。

「大丈夫です。皇帝のアイクへの借りは、この程度のことで済むほど軽くはありませんよ」
「そうか。それなら心配いらねえな」
「ええ。つきましては、鳥翼王にお願いがあります」
「なんだ?」
「ここからシエネまでは距離がありますから、オスカーと向かったとしても数日はかかるでしょう。調べものが一日で済めば良いのですが、そんな楽観はできません。鷹のどなたかに送っていただきたいのですが」
 ほう、こりゃあ驚いた。前はライの背中に乗るのも渋々だったってのにな。
 効率を考えてのことでも、アイクに言われる前に自分でそう頼めるようになったのはいいことだ。
 もちろん、俺に否やはねえさ。

「いいだろう。ウルキ、おまえが行け」
「……はい」
「鳥翼王、いいのか?」

 確認したのはアイクだ。ウルキは俺の腹心の一人だからな。まさかウルキを行かせるとは思ってなかっただろうが、俺だって別に何も考えずに決めたわけじゃねえ。

「ウルキには順風耳がある。いざって時の合流に役に立つんだよ。俺も動くつもりだからな」
「ティバーン、まさかクリミアへ?」
「わたし、行く!」

 眉をひそめたリュシオンと慌てて俺に駆け寄ったリアーネを黙らせると、俺はアイクを見て頷いたセネリオに向き直った。

「わかりました。なるべく早く合流できるよう、努力いたしましょう。……ではお願いします」
「…承知した…」
「アイク、あなたに渡した術符はシノンか、できれば鴉王に使わせるようにしてください。昨夜も説明したように、魔力の高い人でなければ効果は期待できませんから」
「わかった。鳥翼王が先に鴉王の元へ行くのなら、半分を預ける。それで良いな?」
「ええ。それほど枚数を作れませんでしたから、くれぐれもとどめに使うようにしてくださいね。でなければすぐに足りなくなりますから。それでは、行ってきます」
「気をつけて行けよ。なにかあればウルキを飛ばせ。俺でなくても、必ず助けに行く」

 慌しくバルコニーに出た背中に声を掛けると、セネリオはにこりともせずに頷いて化身したウルキの背に乗り、そのまま飛び立った。
 あの軍師殿のことだ。きっとなにか見つけて帰って来るだろう。
 ……それより、問題はこっちだな。

「鳥翼王、どうするんだ?」

 アイクが青い視線を向けたのは、リュシオンとリアーネ、ニアルチだ。

「ティバーン、私は止められても行きますよ!」
「わたしも、行く! クリミア、エリ…シアさま、いる。ネサラも! きっと、いたい。だから、行く!」
「鳥翼王、もしやぼっちゃまになにかあったのではありますまいか? それならばこのニアルチ、なにがあろうとぼっちゃまのおそばに行かねば気がすみませんぞ…!」

 俺に詰め寄る三人の気迫は大したもんだ。思わず笑っちまうぐらいにな。
 別に俺やウルキがなにか言ったわけでもねえのに、ネサラのことになると鋭いにもほどがある。
 同情的な目で俺を見守るロッツに苦笑してがりがりと頭を掻くと、俺は反論を承知で言った。
 冷静に考えりゃ、ほかの選択肢がねえんだよ。

「同行はリュシオンに頼む。恐らく『負』の気が強い場所になるだろうからな。リアーネとニアルチにはセリノスの留守を頼む」
「はい!」
「いやッ! わたし、きっと慣れます! わたしもいっしょ…!」
「鳥翼王、どうかそのような無体なことをおっしゃってくださいますな!」

 予想通りだ。リュシオンは勢いよく頷いて、リアーネとニアルチからは噛み付くような反撃を食らった。
 ニアルチは鴉だからまだわかるが、リアーネのこの剣幕はまったく鷺とは思えねえぞ。

「ティバーンさま、おねがい! わたし、きっと、力…なります! おねがい、おねがい…!」
「鳥翼王…!!」

 リュシオンも慌てて妹とニアルチをなだめようとするが、そのリュシオンを身振りで止めて俺はまず春の新緑の色をしたリアーネの必死な目を見つめて言った。
 酷にはなるが、これは俺がはっきり言ってやらなきゃならねえことだ。

「おまえの気持ちはわかる。だが、もしネサラになにかあれば俺はおまえとネサラの両方を庇わなきゃならねえ。いつもだったらそのぐらいなんでもねえよ。だが、今回は相手のことがまったくわからねえんだ」
「わたし、かばわ…な、で! もっと、ネサラ…まもって!」
「もちろんおまえの気持ちはわかってるさ。けどな、もし俺がそうしたら、どうなる? おまえになにかあってみろ。ラフィエルやリュシオン、ニアルチはもちろん、ネサラがきっと泣くぞ?」
「………」
「あいつの泣き顔が見てえのか?」

 俺も卑怯だな。こう言えばリアーネが首を横に振るしかできねえとわかってるのによ。
 ひたむきなリアーネの目に大粒の涙が浮かんで、それを隠すように俯く。動きを止めた白い翼ごと小さく震える妹をリュシオンがそっと抱いたのを見て、同じように黙り込んだニアルチに向き直った。

「ニアルチ、おまえもわかるな?」
「そうおっしゃられては……仕方がありますまい」
「いや、できりゃおまえにはいっしょに来てもらいたいところなんだ。だが、セリノスを手薄にするわけにはいかねえ。ネサラに続いておまえまでいなくなったら、誰が鴉どもをまとめる?」
「そうですか。……そうですな」
「ああ。今はクリミアのことしかわからねえが、このセリノスにだって『もしも』があるかも知れん。フェニキスの二の舞は絶対にごめんだ」

 このことを出せば、ニアルチは納得するしかねえ。
 最初は仕方なく引こうとしていたニアルチの目に強い光が差した。
 そうだ。なによりも償おうと足掻くネサラのことを思えば、ぼっちゃま一番のニアルチはなにがあってもこのセリノスを守るしかねえ。

「頼めるな?」
「もちろんですじゃ…! このニアルチにお任せあれ」
「よし。ロッツ!」
「はい!」
「後のことはニアルチと協力してやれ。鴉のことについてはシーカーもいる。もしもの時にはウルキに向かって叫べばいい」
「わかりました!」

 どうやらリアーネに貰い泣きしていたロッツは慌てて目と鼻をこすると、リュシオンに古代語でしきりになにか訴えるリアーネとニアルチの二人を呼んで連れ出した。

「ティバーンさま…!」
「わかってる。心配するな」

 ニアルチに寄り添われながら俺を呼ぶリアーネに笑って頷いてやると、リアーネは唇を噛み締めていかにも鷺の姫に相応しい優雅な礼を取って出て行った。
 やれやれ、大事(おおごと)だな。

「ティバーン……」

 一息ついて、最後に一人残ったリュシオンの硬い声に応える。アイクに聞かない辺り、こいつもわかってるな。

「ネサラになにがあったのですか?」

 あまり表情を動かさねえアイクの目が軽く見開かれる。
 緊張で白くなったリュシオンに向き直ると、俺は正直に言った。俺はネサラほど心を隠すのは上手くねえからな。鷺相手に嘘をついたって無駄だと知っているからだ。

「はっきりとしたことはわからん。ただ昨日、軽い怪我を負ったらしい」
「あのネサラが!?」
「俺が戦った感触ではあの泥の化け物はそんなに強くない。なにかあったのか?」

 アイクも正直だな。その言葉でいっそうリュシオンの顔色が白くなる。

「軽い怪我だと言ったろう。ヤナフはそんな嘘はつかんさ。おまえたちも知っての通り、ネサラは強い。ただ、話を聞いて俺も気になったんでな。先に様子を見に行こうと思っただけだ」
「ティバーン、私もいっしょに」
「いや、おまえの翼に合わせて飛ぶと時間がかかる。なにより、アイクたちを無事に連れてきて欲しい。一人空を飛ぶ者がいりゃあ、ヤナフが見つけやすいんでな」
「確かにそうだ。それなら、鳥翼王。あんたにこれを半分渡そう」

 リュシオンの表情が曇ったが、そう言われりゃ納得するしかねえ。それを承知で強引に決めると、先に頷いたアイクが懐から黒い布袋を取り出した。表面に光の模様のように浮かび上がっているのは、魔道士が使う魔力を遮断する特殊な呪文だ。

「例の術符か」
「ああ。予備の袋に入れておく。この袋から出したら術符から魔力が少しずつ抜けたり、持ち手の感情で暴発する恐れがあるから気をつけて欲しいそうだ」

 暴発ねえ。とりあえず、俺の魔力なら心配なさそうだな。自慢じゃねえが、魔力なんかほとんどねえからな。

「わかった。これはネサラに使わせりゃいいんだな?」
「ああ、そうだ。鴉王の他にも魔力が強い者なら、」
「私だな!」

 アイクの言葉を遮って、リュシオンがずいっと身を乗り出して来た。……おい、その手は自分に寄越せの意味か?

「こら、リュシオン」
「魔力が強い者というなら、私でしょう。違いますか? あ、ネサラの分は結構です。それはちゃんとネサラに渡してください。アイク、今度こそ私も戦うからな」
「シノンとあんたが術符を使ってくれたら助かるは……助かるな」
「そうだろう!?」

 おいおい、本気か?
 俺は呆れて、リュシオンは喜色満面でアイクを見るが、アイクの顔は真剣だ。
 リュシオンは戦わせたくねえ。いや、戦わせたくねえと言うより、性格はああでも戦えねえんだ。
 しかし、魔力となったら…そうなる、のか?
 ……しょうがねえな。リュシオンを選んだ時点でこうなるのは当然っちゃ当然かもしれん。

「わかった。だが、おまえも怪我はするなよ。アイク、頼む」
「もちろんだ。今回は今まで以上にリュシオンが重要な戦力になる。そういう意味でも俺がそばにつこう」
「アイク、今度は私も守られるばかりじゃない。期待していろ」
「ああ」

 ったく、勇ましいヤツだ。
 だが、リュシオンのこんな性格は嫌いじゃねえ。むしろ、鷺の民が一番苦手とする戦場に連れて行かなきゃならねえからこそ、助かるってもんだ。

「じゃあ鳥翼王、これを」
「ありがとうよ。昨夜の今日で用意してくれたんだな。後で合流したら心から軍師殿に礼を言わせてもらう。おまえたちも準備が整い次第クリミアへ向かってくれ。もし行き先が変わるようならヤナフを飛ばす」
「わかった。あんたに限ってとは思うが、気をつけてくれ」
「ティバーン、ネサラをお願いします」
「おう、任せろ」

 アイクが差し出した黒い布袋を懐にしまうと、俺はすっかり元気を取り戻したリュシオンの肩を軽く叩いてバルコニーから飛んだ。
 まず目指したのはニケとラフィエルのいる鷺の館だ。
 個人的にはロライゼ様にこそ王宮に住んでもらいてえが、頑なに「そこは鳥翼王の住む場所だよ。私は家族と落ち着いた暮らしができれば良い」と言って譲らねえロライゼ様に折れて、祭壇のそばに新しく用意した小さな屋敷だ。
 もちろん一刻も早くクリミアに向かいたかったが、その前に挨拶をしときたいからな。

「ティバーン、どうしたのです?」

 リアーネが丹精込めて謡って花が溢れた庭に立っていたのはラフィエルだ。

「ロライゼ様とニケはいるか?」
「ええ。女王は中に。父は瞑想中です。夜までは出てこないでしょう」
「そうか、わかった」

 相変わらずガキに囲まれてんな。しかもなんでシノンとガトリーまでいるんだ?
 シノンはさりげなく離れたが、俺を見つけて笑顔で会釈したガトリーに軽く手を上げて応えると、俺は窓を開けたままこちらを見ているニケの方へ急いだ。

「ニケ、今良いか?」
「もちろんだ。茶でも飲むか? 今日はベオクの客人が淹れた茶なんだが、なかなか美味いぞ」
「いや、すぐに立たなきゃならん」
「そうか。この菓子など絶品なのに惜しいことだ」

 そう言って笑ったニケの後ろには照れたように笑うオスカーまでいやがる。
 ああ、そうか。オスカーが焼いた菓子なんだな。

「おはようございます」
「おう。あんたが焼いたなら食ってみたかったが、時間がねえのが残念だ」
「ただのクッキーですよ。そんな大層なものではありませんから」

 本当にこいつらはベオクだってことがまったく気にならねえ。うれしいことだぜ。
 気を利かせてオスカーが外に出るのを待たずに、俺はゆったりと茶を飲むニケに切り出した。

「ニケ、急な話で悪いが、俺のいねえ間セリノスの留守を頼みたい」
「なにがあった?」
「クリミアで妙な化け物が出たんだとよ。それでうちの外交官が巻き込まれてな」
「鴉王になにかあったか。なるほど。それならば恋人であるそなたがまず真っ先に駆けつけるのが道理だな」

 喉の奥で笑って俺を見上げたのは、からかうような濃い緑の隻眼だ。
 ったく、女ってのはちょっと歳が上になるとすぐに男をからかいやがる。

「そう思うなら協力してくれるんだろうな?」
「当然だ。ここにはラフィエルがおり、ラフィエルの家族がいる。言われずとも私が守らぬはずがない」
「それなら心強い。相手はベオクの骨と泥でできた化け物だ。炎と光の魔法しか効かねえらしいが、恐らく『正』の気が強いここじゃ出てはこれねえ。だが生きた相手がいれば……」
「ふむ、その生きた敵が現れた場合は、私に片付けろと言うのだな?」
「ああ。鷹の兵も鴉の兵もぼんくらじゃねえが、弓使いはべつだ」

 そこまで言うと、目には変わらずからかいの色はあるままだったが、ニケははっきりと頷いてくれた。

「いいだろう。我が愛しき伴侶の友よ。有事の際にはそなたの代わりにそなたの民を守ろう。この狼女王ニケがな」
「ったく、いい女だぜ。頼む」
「ふふ、そなたもいい男だぞ。ラフィエルの次にな」

 あのラフィエルを「いい男」だと認識するニケの褒め言葉がどの程度本気かわからねえが、とりあえず喜んどくのが男ってもんだな。
 ニケにもう一度礼を言うと、俺は品良く繊細にまとまった部屋を出て心配そうにこちらを伺うラフィエルに笑いかけ、「ロライゼ様によろしく伝えてくれ」と言い残して一息に上空へ飛んだ。
 オスカーたちももういねえ。どうやらアイクの方も支度に入ったんだな。
 ニケに後を頼んだ今、俺の支度は特にねえ。水も食い物も現地調達できるのが鷹の民だ。

「ったく、手のかかるヤツめ。しまいにゃ本気で囲い込むぞ」

 睨んだのは北の空。はるかなセリノス大森林の先にあるクリミアだ。
 深く息を吸って化身すると、俺は全力でクリミア目指して羽ばたいた。





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